2016/02/17

『日本人が忘れてしまった日本語の謎』山口謠司著

【新・英語屋通信】(65)

「ン」には〔m〕〔n〕〔ng〕3種がある
 本書の第3章は<「ん」はもともと日本語なのか>というテーマで、英語の〔m〕〔n〕〔ng〕の3種の「鼻音」の違いを明瞭に示しています。サブタイトルに<「ん」の誕生とルーツに隠れた謎>とあり、中身を読めば、「ん」が中国語に由来して、導入者が空海で、普及者が最澄だったとわかります。
 本書はさらに、仏教説話を収録した『今昔物語』が「ん」を多用した歯切れのよい文体であると指摘し、諸行無常をテーマとする『平家物語』もその一役を担ったと例示しています。法師が琵琶を弾きながらストリートライブで物語っていた様子を思い描くにつけ、「ん」がいっきに国風化された状況に納得させられます。
 中国語をかじった者なら、「san」と発音する「三・傘・散」などを仮名で「サン」と書き、「sang」と発音する「喪・桑」が仮名で「ソウ」になる関係に気付かされます。
 朝鮮語に入門すると、数の「三」を「サム」と発音すると知ります。「サム」は隋・唐期の中国音で、わが国でも室町時代まで「サム」と表記していたようです。ちなみに、朝鮮語の「品」は「ホム」で、日本語では「ホン」として「九品寺」(クホンジ)という地名が至る所に残っています。ハングルでは「ㅁ」(m)と「ㄴ」(n)を厳密に区別しますが、現代日本語の発音は口の筋肉をあまり使わないため曖昧になるのでしょう。
 空海は「ン」の導入にさいして、曼荼羅の思想ともども「阿吽」という言葉を借りたと著者の山口氏は述べています。阿吽は「一方は口を開き、一方は口を閉じた仁王像」で表現されています。また、五十音は「ア」で始まり「ン」で終わるとか、阿吽の呼吸などもあって、特別扱いされる意味深い言葉です。
 山口氏は「撥音」の「ン」において、〔m〕系を「唇内撥音」、〔n〕系を「舌内撥音」、〔ng〕系を「喉内撥音」という専門用語で示していますが、英語の鼻音に相当します。そして、「日本」のローマ字表記は nihon だが、「日本橋」なら〔n〕が〔m〕に転化する日本語特有の「連音」で nihombashi となる例を挙げています。また、同氏の夫人はフランス人で、日本語をローマ字表記するさい「ガンモドキ」の「ン」は〔m〕とし、「リンゴ」では〔n〕とする例も紹介しています。
 さらに、英語での連音が company・combat・command と〔p〕〔b〕〔m〕の前では〔m〕になり、それ以外の contact・condemn・convention・concentration などでは〔n〕になる理由も解説しています。
 無声音〔p〕・有声音〔b〕・鼻音〔m〕のいずれも上下の唇を閉じたまま発音する「両唇音」で、これに対応する〔t〕〔d〕〔n〕が上の歯茎を叩く「歯茎音」で、〔k〕〔g〕〔ng〕は舌の後方を利用する「軟口蓋音」であると音声学が定義しています。3つの鼻音以外の6音は、母音を続けるとき音が出て「破裂音」になりますが、本書は英語の27個の子音のうちの9個の関連性を明解に教えています。言語に対する著者の愛情がほとばしり出たオリジナル性の高い素晴らしい1冊です。
 江戸期の国学者である本居宣長が上古の日本語には「ン」が存在しなかったと指摘しているそうです。ともあれ、日本人が「ン」を発音できて、表記するまでにはあまたの試行錯誤があったようです。現代日本人は無意識に〔m〕〔n〕〔ng〕の3種の発音を言い分けていますが、表記は「ン」ひとつで間に合わせています。理屈はともかく、英語を話したければ、必ずこの3音を使い分けできなければなりません。
(編集部)
2016.2.17(水)